友人Kと定期的な長電話・・。
「彼」との会話の中のほとんどは、いつも《釣り》に関すること・・(もちろん、家族のことや仕事の話もしているぞ!1割くらいはね・・)ばかりなんだけど・・。
その会話のところどころに《人生哲学》が散りばめられていて、そこに人間的変化や成長の輪郭が垣間見えて、いつも新鮮で面白い・・というかほとんど釣りの話しかしてないんだけど人生を歩んでいるように思えて深い・・。
これが、「釣り=趣味」・・の世界ではなく、「釣り=人生」・・という壮大なイチ個人の物語なんだろうな・・と、ふと思う・・。
おそらく、僕らは《釣り》という会話を通してお互いの人生観、若しくはC生観・・その他数多の観念を透視している・・。
そんな彼から、突然・・「釣り履歴(時系列)を書いてほしいんだ・・」という切実な依頼がきた・・。
えっとね・・。
◯やって、◇やって、△やったよ!
でも、◎もやったなぁー・・。
言葉じゃ記憶できん!
書いてくれ!
こんな底辺アングラーの釣り履歴を書いて、何が面白いんだ・・というのが率直な感想ではあるのだが・・。
確かに友人Kでなくとも、それはいろんな人から聞かれる質問(浅く聞かれたり深い意味で言われたり様々)だった。
そもそも、釣り人同士ならそういう会話はありふれているのかもしれないが、友人Kの場合はそれだけではないだろう・・。
きっと、彼はきっと・・僕の《何か》を垣間見ようとしているに間違いない・・。
さして、平凡で平坦な履歴ではあるけれど・・。
ほとんど、その変遷は環境由来(職場環境由来)ではあるけれど・・。
確かに、会話では覆えきれないボリュームだと思うので・・。
自分の言葉を使って、自分なりに切り取って書いてみようと思う。
CONTENTS
4歳〜6歳:ヘラブナ
4歳とか5歳の頃という、自我が薄っすらと芽生えた頃・・。
僕はすでに父親の影響で、その年齢ですでに《釣り》に出逢っている。
魚は「ヘラブナ」・・。
延べ竿(ヘラ竿)でやるアレだ・・。
そもそも、父親は《生粋のガチ磯師》であり、男女群島に年に2回は行くほど(つい最近・・父親の友人に出逢うまで、その事実を知らなかった)のガチ勢なのだが・・。
当時の彼(父親)の実情としては子供が2人(後に1人追加)もいる訳で・・。
家計的にも状況的にも遠征費を容易に捻出するほど裕福な状況ではなかったはずで・・。
推察するに、釣りはしたいが家族を養わなければならず、養うためには仕事もフラフラ出来ないわけで・・。
そこで選んだ《釣り》がヘラブナだったんだろうと思う。
その選択・・まるで、今の僕のようだ・・(苦笑)。
だが、改めて思う・・。
鳶が鷹を生むことが出来なくて残念かもしれないが、父よ・・今、僕は幸せだぞ。
俺はあんたの子に生まれて良かった。
釣りに巡り合わせてくれてありがとう・・。
とりあえず、このヘラブナ釣り・・。
自我の薄い年齢でやっていたことなので、この釣りで何を学んだ・・とか何を掴んだ・・とか、そんなことは一切分からないけれど・・。
小さいヘラブナはぶっこ抜けて(当然ヘラブナが僕目掛けて飛んでくるので、衣類にその臭いが染み付き母親によく怒られた)、大きいヤツは当然抜き上げられなくて、オロオロしていたら口切れさせてしまった記憶が残っている。
つまり、今・・ヒラスズキやスズキを狙ってて、大きい個体を掛けてアタフタしている光景とそっくり同じで・・。
全く成長していないことが伺える・・(汗)。
ただ、これだけは言える。
僕の人生にはそもそも《釣り》があった・・。
7歳〜10歳:ブラックバス・ハヤ
おそらく小1から小4くらいまでの間だろうか・・。
ヘラブナ釣りに飽きたのか、何かしらのステップを踏んだのか、父親は僕に新たな《釣り》の世界を魅せていく・・。
当時、日本に一大ブームを巻き起こしていたブラックバスの釣りを一緒に始めたのだ。
とうとう、ここで「リール」を用いる釣り・・そして「キャスト」する釣り・・「ルアー」を使う釣りを覚えたのである。
当然・・僕もそうなんだけど、父にとって初めてのルアーフィッシング・・。
生粋の磯師である父は、《釣れない》・《反応ない》・《何してんのか分かんない》の三拍子揃ったバスフィッシングに速攻飽きてしまって、ヘラブナ・コイ釣りor近所で僕を置いてソロフカセの世界に戻ってしまう訳だが・・。
そんな初めてのバスフィッシングで・・僕は初めてブラックバスを釣ることになる・・。
釣り方なんて、よく分からない。
おそらく2〜3gほどのジグヘッドにストレートに刺したワームを投げてて、突然ロッドが重くなって、気がつけば陸に魚が跳ね回ってて、父が魚をキャッチするよりも早く川の中に消えた刹那的描写は、それなりに色褪せてはいるものの漠然と今でも憶えている。
僕とブラックバスの最初の邂逅・・。
そこから、僕はブラックバスの世界へ足を踏み込むこととなる。
父は、僕よりも6歳〜9歳ほど年上の従兄弟達(この人達も釣りが好き)を連れて、よくバス釣りに連れてってくれた。
川・・ダム・・湖・・。
とにかく、いろんなフィールドに行って、いろんな世界を見せてもらった。
僕らは、ほとんどの釣行でブラックバスを釣ることは出来ず、父はきっと生涯の中で一度もブラックバスを釣ることは出来なかったはずだけど・・、きっとその《過程》を・・その《瞬間》を楽しんだはずだ。
こんな感じで自然と月日が流れていくと、自然と糸の結び方を覚えていく・・。
そして、皆がスーファミでドラクエやストリートファイターに夢中になっていく中、僕は「川のぬし釣り2」に夢中になっていく・・。
そのあたりから、新たなステップとして、父は僕を連れてハヤ釣りに連れて行くようになる。
当時、正直なところハヤ釣りよりもブラックバスの方がしたかったはずだけれど・・。
自分で持ち物を持って、管理しなさいと父は言う・・。
「紫川」と名前のついた延べ竿を貰い受け、天井糸やハリス・・ハリやシモリウキといった仕掛けの類を選び、自分なりにセッティングして魚を狙うのは新鮮だった。
キレイな上流(渓流は危ないからダメだと母親からキツく言われていたので、行けていない。)の世界で釣るオイカワやウグイ・・カワムツにアブラハヤといった魚には、今まで感じなかった魚の美しさ(だって、ヘラブナとブラックバスだぜ・・)があって、ブラックバスとは違う世界観があって面白かった。
この川の先には渓流があって、きっとそこにはヤマメがいる・・。
当時の川のぬし釣り2のせいで、福岡の川の渓流のどこにでもヤマメやアマゴやイワナがいて、それぞれサクラマスやサツキマス・・アメマスがいると勘違いしていた年頃だけど・・。
これが、後の釣りに大きく関わっていくことになることを当時の僕はもちろん知る由もなかった・・。
ちなみに、僕の唯一(これくらいしか本当にない・・。)の自慢になるんだけど・・。
小3の頃・・夏休みの絵画コンクールか何かの公募にて、婚姻色のオイカワやウグイがキレイな川の中を泳いでいる絵を描いたところ・・何故か福岡県知事賞を受賞した。(※翌年の小4でブラックバスの絵を書いたが、それは何にも賞をとれなかったのは内緒・・)
11歳〜18歳:ブラックバス
結び方を覚え、ワームくらいしか買えない程度のお小遣いではあったけれど、ほとんど1人で釣りが出来るようになった頃・・。
僕は、父親から離れ、学校の仲間達と徒党を組んでバス釣りに励むことになる・・。
いわゆる、釣りボーイズの誕生である。
小学・中学は地元の仲間達とチャリンコに乗って遠くのダムに遠征したり、夏休みなんかは皆で朝早くに起きて集合したりして、ブラックバスを釣りに出掛けた。
釣れないことが多かったけれど、父と一緒に行く釣りと違って《冒険》しているような感覚があって、釣れずともそれだけで楽しかった。
高校になると、部活が県大会上位に入るような強豪のバレー部に入部してしまった・・ということもあり、なかなか釣りに行ける機会が少なくなってしまったが、自分が行ったことのない地域に住んでいる同級生がたくさんいて、バスブームのおかげでたくさんの高校生バスアングラーが大勢いた・・ということもあって・・。
貴重な休みは専ら彼らのホームに遊びに行ったり、地図を眺めては未だ踏み込んだことのない野池巡りに馳せ楽しんだ。
高2の夏だっただろうか・・。
お小遣いを貯めて黄色い4ピースロッドを買った。
それと併せて、電車+徒歩通学から電車+自転車通学に切り替えたことで、通学前や学校終わり・・といった隙間時間を利用してブラックバスを狙うようになる・・(笑)。
制服姿で釣りをしているので、時々・・偶発的に同じ高校の生徒に見られることがあって、それはそれでめちゃくちゃ恥ずかしかったけれど、この頃に「ソロ」で楽しむ釣りを知ったんだと思う・・。
書き忘れていたが、この記事の依頼者である友人Kとは高校の同級生であるが、ほとんど疎遠のまま・・クラスが一緒になることなく、共通の友人がいる程度の・・、お互いに顔と名前が一致している程度の関係で高校生活を終えることとなる・・。
もし、このタイミング(10年ほど早い・・)で彼と意気投合していたのなら・・。
今・・どうなっているんだろうな・・。
怖くて想像できない・・(笑)。
19歳〜23歳:ブラックバス
高校を卒業し、「大学」という選択肢には目もくれず、僕は「社会人」という選択を希望する・・。
今までうっすらと認知はしていたものの、そこまで脅威と思っていなかった《物欲》という名のモンスターが目覚めたのは、この時期だろうか・・。
社会人になって5年以上・・。
僕は貯金もろくに出来ず・・ストレスの代償・・と称して散財することが楽しみとなる・・。
休みは、あるようでない・・。
あっても、寝溜めしないと1日を乗り切れる自信がない・・。
それで良い・・。
それが自分の生きる道・・。
稚拙で脆弱な責任感は、釣りを遠ざけ読書を呼び込むこととなり、もともと読書は好きだったけれど、病的に本を読むようになり、僕のブログの言語形態の基礎はここから育まれたんじゃないかと思っている。
しかしだ・・。
淀川に面した勤務地且つ居住先・・ということで、飽きるほど淀川という一級河川は見てきたが・・。
せっかくバサーの聖地として名高い「琵琶湖」・「七色ダム」・「池原ダム」を有している関西フィールドの中心地である大阪を選んだというのに・・。
何度もバサー(釣り雑誌)を読んで焦がれ続けた聖地だというのに・・。
この5年・・そんな聖地に一度たりとも行くことはなかった。
精神が大人になりきれる前に社会人になってしまったせいなのか、それとも「ストレス」・・というモノが、社会人1日目にしてデフォルトで抱えていたからなのか・・。
同僚から「ストレスを溜めると良くない・・」と言われ続けていたが、そもそも初期設定がそんな感じなので、僕という人間がそもそも「ストレス」を抱えているのか・・さらに「ストレス」がない状態・・というのが良く分からなかった。
もちろん、ストレスを発散する・・ということの意味も当然分からなかったから、ランニングとか筋トレとか仲間との飲みだとかでストレスが発散されていることすらよく分かっていなかった。
自分だけ苦悩・・苦労すれば、やがて辿り着くであろう人格者としての成れの果て・・。
社会人になって5年ほどが経過したある日・・気づくのである。
勿体ねぇ・・と。
そこからは、簡単だった。
釣りに行きまくった・・。
散財(何に使ったかも、よく覚えていないけれど、エンゲル係数は物凄く高かったはず)しているので、当然・・車も、ロードバイクも、バイクも持ち合わせていなかったから、チャリ(当時ミニサイクル・・)で行きたいところに駆け回った。
バス釣りを趣味としている同僚や先輩の車に乗って、聖地を巡礼した。
誰もスケジュールが合わないから、チャリで琵琶湖まで釣りに出掛けた。何度も・・。
紀ノ川で釣りがしたくて、夜中に峠を自転車で進んでいたら、パンクして夜明けと同時に和歌山入りを果たした。
奈良に行く道中でも同じことをした。
奥琵琶湖の下り坂・・チャリの電気が熱ショートで断線し、視界不良の中を月明かりのみで進んでいたらイノシシと衝突して転倒したり・・。
野池で釣りしてて、丘と思った場所が水辺で落水してしまって、藪の影に隠れてパンツ干そうと脱いでたら110番されたり・・。
スズキが橋の下にうじゃうじゃいて(当時スズキ釣りにはまだ出逢っていない)、橋の下をずっと覗いてたら自殺企図者と思われて職質されたり・・。
なんか・・「無謀」や「無茶」といった線引きがよく分からず、どう転んでもカオスな日常ではあったんだけど、釣りから離れることは出来ないことを思い知った。
自分を取り戻した訳である。
そして24歳・・。
このあたりから、緩やかに・・そして多角的な成長と葛藤を繰り広げ、今現在の「僕」として成長・・?成熟・・?していくこととなる・・。
24〜25歳:渓流
ブラックバスだけで良い・・。
むしろ、それだけしか知らない訳で、選択肢はそれしかなかった。
だから、それが頂点であって、それ以外は考えられなかった。
もちろん、他の釣りを蔑むことはないし、軽んじることはなかった。
けれども、他の釣りをしている人に対して、ブラックバスをしないことを勿体ないと残念がっていたことは間違いないだろう・・。
その年の春を迎えるまでは・・。
春の異動でやってきた僕の上司は生粋の渓流ルアーマン(フライ含む)だった。
僕は、その上司との人間関係に苦戦していた・・。
苦戦した理由としては、今までの上司は背中で見せるタイプの人がほとんどで、《人間的に問題はあれど仕事が恐ろしく出来る》ので、叱責されても人格否定されても自分が足りていないだけ・・と割り切ることができた。
もちろん、僕もそんな環境に身を投じているのでボロボロに疲弊しながらも成長していく訳である。
成績という名の成長は、誰しもが見える最も簡単な指標であって、僕が成長すればするだけ《人間的に問題はあれど仕事が恐ろしく出来る》上司との信頼関係も良好になり、絆も深まる訳である。
飲みに誘われると当然行くし、一度もお金を払ったことがない。
僕が明らかにやらかしてしまったミスは、全て上司が責任者として頭を下げた。
人間的に(マジで異常なくらいに)問題はあれど、どこかのタイミングで「部下」から「息子」や「年の離れた弟」・・のような感覚を憶え、そこに人間臭さ(ドブ臭)があって嫌いにはなれなかった。
この春・・僕の上司になった彼は違った。
そんな5年を潜り抜けてきた僕にとって、その上司はハッキリ言って仕事が出来る人ではなかった。
正直・・足手まといだった。
今までのファシズム体制の崩壊によって、班の成績は必然と落ちた。
今まで我が物顔で出勤していた僕は、肩身が狭くて居心地が悪くなった。
周りから「どうしたんだ・・」「頼むぞ・・」と言われる度に、上司への不満が高まり、新体制早々に僕は上司と意図的に喋ることをやめてしまった。
自覚症状ありの故意的悪循環である。
ここから先は、この記事とはかけ離れた方向へ進んで戻ってくる・・という長編となってしまって、何の記事なのか訳分からなくなってしまうので、大きく割愛せざる得ないのですが・・結局、その上司と渓流へ釣りに行き、その上司のアイデンティティに触れ、端的に言うと仲直りした(笑)。
※ ちなみに、仕事が出来ない上司・・と思っていたけれど、実際・・そんなことはなくて普通に出来る人で、前の歴代上司達が異常だということが分かりました・・。
念願のイワナも釣り、アマゴも釣った。
サツキマスとサクラマスも釣った。
やはり、渓流の魚はキレイで言葉が無粋なほどに感じるほど・・。
渓流に魅了され、凝り固まったアイデンティティを上司によって解された僕は、仕事を辞める決意を《良い》意味で決心することになる。
そして、ブラックバスだけで良い・・という考えが消え、それぞれに良い部分があって、みんな違ってみんな良い・・という金子みすゞ的アイデンティティを身に着けることとなる。
26〜28歳:源流ヤマメ・スズキ
およそ8年の社会人生活に終止符・・。
大阪から、地元福岡へ戻ってきた・・。
おそらく、自分の幾つかあるであろうターニングポイントの1つを通過した。
まだまだ、感情のマイナス面を活力にして生きていることは否めないが、やはり福岡は落ち着く・・。
とりあえず、さっそくやりたい釣りをやってみた・・。
源流ヤマメ・・。
福岡市に住んでいることもあり、果たして福岡市にヤマメがいるのか・・分からないことが《魅力》なので、山に行っては登山者に変な目で見られながら源流に入渓し、沢登りしながらヤマメを探した。
時には、市町村の郷戸資料館に行って水産業の歴史(そこにヤマメがいるのかorいたのか等・・)を調べたりもした。
そんな、とあるエノハ禁漁期間の秋・・。
僕にとってはオフシーズン・・。
当時住んでいたアパートから、歩いて5分の川の橋からデカいスズキがたくさん入っているのを目撃・・。
ここから、スズキ(シーバス)の沼にはまっていくことになる。
28〜33歳:スズキ⇒オフショア・ライトゲーム
約2年ほど・・釣れないことが多かったスズキ釣りだが、徐々に釣れるようになってくる。
さらに、オフショアゲームを嗜むようになる・・。
玄界灘を有する福岡に戻って来て、心から良かったと思う・・。
ボートシーバスで、あれほどデイゲームで出せなかったスズキが、ボートに乗るとめちゃくちゃ釣れる・・。
難しくて、思考を用いる釣り・・と感じていたスズキ釣りが、もちろん船長の腕前・・ということも間違いないが、あんなにイージーに釣れてしまうと、なんだか嫌になって数年スズキのことが嫌いになって遠ざかってしまう訳だが・・。
オフショアでは、ジギングで青物やタイラバで真鯛を釣ったり、仲間達とワイワイ楽しみながら美味しい魚と出逢うことによって、オフショアゲームの楽しさを知ることになった。
ここでは、「人」と繋がる・・という、今までにない経験をした。
彼ら、彼女らのアイデンティティに触れ、エギングやライトゲームもやるようになったし、離島に行ってまったりとした時間を過ごしたり、仲間と遠征に出掛けたり、釣りに厚みが出たのがこの時期なんじゃないかと思う。
34〜37歳(現在):スズキ・ヒラスズキ
長かったが、ようやく今・・現在の「僕」について・・。
スズキ釣りをするようになって、「ヒラスズキ」という魚は是非とも釣りたい魚ではあった・・。
あの銀色の魚体に、あのシルエット・・。
どう足掻いてもスズキよりカッコいい・・。
ただ・・焦がれていたが、ヒラスズキに出逢うには敷居が高い・・。
自分1人でエントリーするには分からないことが多すぎて踏み込めない・・。
なにせ、荒磯だ・・。
あんな海の中に魚がいるなんて、未知過ぎてよく分からん・・。
そんな状況・・、そんな当時、離島のナイトゲームでヒラスズキを狙っていた訳ではないが、偶然・・凪夜にヒラスズキをキャッチすることが出来たのを皮切りに・・。
それぞれの釣りをお互いにリスペクトしつつ、そこまで交わることなくお互いの釣りライフを楽しんでいた僕と友人Kは、深く交わることとなり、友人Kをヒラスズキの師匠と仰ぎ、ヒラスズキの世界に没入していくことになる。
現時点において、僕はヒラスズキが1番最高な釣りだと思っている。
その理由としては、今までの釣りで経験した《面白さ》が収束していると感じるからだ・・。
小学生の頃に感じた《冒険》している感覚・・。
高校生の頃に知った《孤独》の面白さ・・。
社会人になって経験した《無謀》と《無茶》、《リスク》と《危険》の境界線・・。
それぞれの当時に、それぞれ面白いと感じていたものが、ヒラスズキゲームにはあった。
きっと、僕にはまだまだ人生が続いていて、それがどれくらいのタイミングで事切れるのか知る由もないけれど、多分・・ヒラスズキが1番好き・・という想いはずっと変わらないだろうな・・と漠然と思う。
まとめ
かなりのボリュームになってしまった・・と自分で書いているくせに、何故か後悔しているところですが・・。
まず、これほどの量の駄文に付き合って頂き、本当に感謝致します・・。
僕は、過去にこんな釣りをして育ち、流れたり彷徨ったり立ち止まったりしながら「今」に至っています・・。
これが、端的に自分の釣り履歴を話せない・・話せたとしても相手に理解されない理由です(汗)。
釣りが人生と癒着し過ぎて、《釣果》とか《大きさ》とか僕にとってはそこまで重要ではなくて・・。
何を重要・・に重きを置いているかと聞かれれば、まともな返しが出来ない訳で・・。
そこで出会った何かしらの情景を・・。
そこで出会った人や魚やエンカウントした何かしらの事象を・・。
その過程の1つ1つを繋いで、釣りではない部分も汲み取って、それを「冒険」として、「成長」の物語として楽しんでいるんじゃないか・・と感じています。
自分で書きながら、漠然としているな・・と、語彙力の無さに辟易しているところではありますが、長文や言葉の羅列の連鎖は得意分野なので、いつか・・また似たような雑記を書きたいと思います。
それでは、また今度・・。